九戸城跡を南東側より撮影
昭和10年(1935)に国の史跡に指定された九戸城は2つの時代が併存しています。まずは九戸光政の代の頃(明応年間=1492〜1501)に築城されたといわれる中世平山城の九戸城で、本丸・二ノ丸・三ノ丸を除く部分が九戸城そのままの姿と考えられます。九戸城落成後、上方軍によって普請された本丸・二ノ丸・松ノ丸を加えた現在の姿が近世城郭、福岡城の姿です。
九戸城は落成後再普請されて福岡城と改名されたのですが、地元では今もって九戸城と呼んでいます。
本丸隅櫓跡脇石垣(左上)
漆塗りの上に金泥を使用した鎧の札(右上)
大腿骨上部の刀創(左下、東北大学出版局『骨が語る奥州戦国九戸落城』より転載)
本丸跡出土遺物の火縄銃弾丸鋳型(右下)
平成元年度(1989)から開始された九戸城の史跡環境整備事業により、落城直後、秀吉の命によって蒲生氏郷らにより現在の本丸跡・二ノ丸跡部分を中心に安土桃山様式の城に築き直されたことが分かりました。その本丸整地層の断面には焼土や木炭、火を受けた生活遺物や火縄銃弾丸など戦禍の痕跡が見られ、さらにその下位に地上では観察できない堀跡や溝跡などの九戸城時代の遺構が残っていることが明らかになりました。
平成7年(1995)、二ノ丸大手門近くで九戸城落城直後に掘られたと思われる粗末な墓穴から、首のない人骨十数体分が発見されました。これらには無数の殺傷痕や刺突痕があり、平成20年(2008)に東北大学医学部で再調査の結果、地元に伝わる伝承や後世の軍談記にある撫斬りの犠牲者と考えられています。
また、平成11年(1999)には二ノ丸跡から工房跡と考えられる竪穴遺構群が検出され、そこから漆の付着した貝殻や漆に金泥を塗り込めた豪華なよろいの札(さね)などが出土しました。このことは、九戸氏が場内で武具を仕立てるほどの力があったことを示しています。