政実無残。 太閤仕置の大乱に散る。


■秀吉の全国統一完了■

豊臣秀吉は、奥州再仕置(九戸征伐)と称して全国に出動命令を出した。そこには総大将に豊臣秀次以下、徳川家康・伊達政宗・石田三成・蒲生氏郷・上杉景勝・浅野長政・井伊直政・大谷吉継・堀尾吉晴・佐竹義重など、錚々たる戦国武将の名が連ねられていた。



南部の二大勢力

 鎌倉時代に発祥した奥州南部氏は、26代信直が盛岡藩を確立し幕末には陸奥10カ郡・20万石を領し、最後の藩主は15代を数える大名でした。天正8年(1580)、24代藩主晴政が死去したことで、娘婿の田子信直支持派と誕生したばかりの遺子晴継(25代)を擁護する九戸派が対立、その後、晴継も13歳で謎の死を遂げ、世継ぎ騒動は混迷の度合いを深めていきます。

 結局は信直が26代目を継ぎ決着しますが、この嫡流と傍流に関しては、永禄6年(1563年)の室町幕府「諸役人附」の「関東衆」の中に「南部大膳亮」と「九戸五郎」が併記されていることから、南部氏と九戸氏は同格の別族であるという説や、併記は同族並立状態が依然として続いていた北奥羽の様相を反映したものとする説もあります。要するにこの時代、南部は二大勢力が対立する時代でした。




6万対5千

 天正19年(15913月、九戸政実はついに挙兵し、南部を二分する戦いに突入します。豊臣秀吉の重臣前田利家を通じ、自らが南部家本宗であることの確認の起請文を送っていた信直に対し、秀吉は領地安堵の書状を与えて26代当主を公認、緒戦は九戸方が優勢でしたが徐々に形勢が逆転し、政実は天下人に背く謀反人として奥州仕置軍と戦うことになりました。

 92日、馬淵川をはさんで、一説には再仕置の上方軍勢6万に、九戸籠城軍は約5千人が対峙、熾烈な攻防が始まりました。


偽りの和睦

 94日、難攻不落の城に苦戦を強いられた上方軍は謀略を巡らせ、九戸氏の菩提寺長興寺の和尚(一説には4代目住職薩天)を使者にたてました。持たせた手紙の中で政実の武勇を讃え、女子供の助命を条件に降伏を説得させました。

 謀略とは知らぬ和尚と、一人でも多くの一族郎党を救おうと和睦に応じた政実でしたが、開門した城内には火が放たれ、城内の者は撫斬りにされたと伝えられています。また、政実と7人の重臣は豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県栗原市)で斬首されました。

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