二戸史料叢書 第二十一集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 Ⅳ』― 盛岡藩「雑書」抄 ―
(令和3年3月発行 3,000円)
「雑書」シリーズのPart Ⅳ。第二十一集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 Ⅳ』は、宝永3年(1706)から正徳4年(1714)までの9年間を収録しています。 宝永3年(1706)は、12年前の元禄7年(1694)、盛岡藩四代・行信が、弟へ二戸郡と和賀郡の新田五千石を、弟へ三千石を分地して幕臣(旗本)としたものの、新田なことと、打ち続く天候不順のために収穫は乏しく、土地は返納され、後に「御返地」と呼ばれるようになった、その返納の年。知行地からの上納米に代えて、藩から現物米を支給する旨が記されています。 盛岡藩家老席日記といわれる「雑書」から、二戸地域の出来事を抽出し、三戸・八戸など近隣地域の出来事、藩全般にかかわる記述、幕府や藩主からの通達等も加えて収録し、記事ごとに見出しを付けています。
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二戸史料叢書 第二十二集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 Ⅴ』― 盛岡藩「雑書」抄 ―
(令和4年3月発行 3,000円)
「雑書」シリーズのPartⅤ。第二十二集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 Ⅴ』は、正徳5年(1715)から享保12年(1727)までの13年間を収録しています。この間、享保6年(1721)~享保9年(1724)と、享保11年(1726)は、資料の不備や、原本の欠落などで、未収録となりました。一方、新たな試みとして、本文の見出しを年表風にまとめ、巻頭に「見出し一覧コーナー」を新設しました。
この期間、徳川幕府の将軍が家継から8代吉宗へ替わって、文武忠孝・礼儀を重んじる武家諸法度(15項目)の順守が通達されるなど、「享保の改革」が始まりました。盛岡藩内では、藩主利幹が37歳で死去(享保10年・1725)。が光景に就くなど、中央、地方で世代交代が起きました。
盛岡藩家老席日記といわれる「雑書」から、二戸地域の出来事を抽出し、三戸・八戸など近隣地域の出来事、藩全般にかかわる記述、幕府や藩主からの通達等も加えて収録し、記事ごとに見出しを付けています。
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二戸史料叢書 第二十三集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 6』― 盛岡藩「雑書」抄 ―
(令和5年3月発行 3,000円)
「雑書」シリーズのPart6。第二十三集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 6』は、享保13年(1728)から同16年(1731)までの4年間を収録しています。
この期間の目玉は「盛岡大火」。享保14年(1729)4月3日午後2時過ぎ、盛岡・大沢川原新土手の侍屋敷から出火、折からの西風にあおられ、14時間も燃え続け、翌日午前4時ごろに鎮火。侍屋敷212軒、足軽家137軒、職人家26軒、町屋1340軒、農家50軒、寺26ヶ寺、焼死者(男)6人、焼死馬1匹という大変なものでした。
盛岡藩家老席日記と言われる「雑書」から、二戸地域の出来事を抽出し、三戸・八戸など近隣地域の出来事、藩全般にかかわる記述、幕府や藩主からの通達等も加えて収録し、記事ごとに見出しを付けています。
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二戸史料叢書 第二十四集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 7』― 盛岡藩「雑書」抄 ―
(令和6年3月発行 4,000円)
「雑書」シリーズのPart7。第二十四集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 7』は、享保17年(1732)から元文5年(1740)までの9年間を収録しています。
元文4年の頃では、かつての「九戸政実の乱」の終結を示す『還住証文』が福岡・平糠村(当時)で見つかり、藩主利視の目に触れたことが記されています(10月19日付)。戦いから逃避した農民たちに、「終わったから安心して帰住してよい」という豊臣方の勝利を示す証文です。
盛岡藩家老席日記といわれる「雑書」から、二戸地域の出来事を抽出し、三戸・八戸など、近隣地域の出来事、藩全般にかかわる記述、幕府や藩主からの通達等も加えて収録し、記事ごとに見出しを付けています。
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二戸史料叢書 第二十五集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 8』― 盛岡藩「雑書」抄 ―
(令和7年3月発行 4,000円)
「雑書」シリーズのPart8。第二十五集『藩政期の二戸 福岡 浄法寺 8』は、元文6年(1741)から延亭3年(1746)までの6年間を収録しています。
寛保3年の項では、福岡の御役医種市立意の召使・源七という者が、ハヤブサが捕らえた鶴を見つけて、代官に届けたところ、ご褒美として五百文をいただいたことが記されています(9月19日付)。
当時のこの地域には鶴が飛来していたことを示す貴重な記述です。
盛岡藩家老席日記といわれる「雑書」から、二戸地域の出来事を抽出し、三戸・八戸など、近隣地域の出来事、藩全般にかかわる記述、幕府や藩主からの通達等も加えて収録し、記事ごとに見出しを付けています。
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